引湯は江戸時代から行われている。岳温泉、山田温泉などが代表的である。その後、宇奈月温泉など観光開発目的で温泉地間での引湯が多く行われた。高所に設置した湯口から多量の湯を放出し、湯の落下地点に人が立ったり、は座ったりした形で湯に体を当て、湯の勢いでマッサージ効果を得ることを狙ったものである。打たせ湯の場所には通常は浴槽は設置されず、利用された湯はそのまま排出される。また、通常は立つまたは座る形での利用のため、その利用者のスペースは多くは確保されていないが、寝そべった形での利用も想定している場合は、それに合わせた広いスペースを提供している。打たせ湯は多量のお湯を利用するため、常時放出型の打たせ湯の場合、通常は温泉で提供されることが多い。また利用形態の都合、エアロゾルが大量に発生することは避けられない。そのため、レジオネラ菌対策もあり、通常は掛け流しにて温泉が提供される。
藍藻は温泉藻として普通に見られる生物である。イエローストーン国立公園をはじめ世界中の温泉地に生育している。多くの属が高温で生育可能であり、45℃以上に至適生育温度を持つものは好熱性と定義される。温泉藻として主なものを以下に挙げる。真核温泉藻の中核を成す生物群。温泉藻である紅藻は海洋に生息するような大型の藻類ではなく、全てイデユコゴメ綱に分類される単細胞の紅藻である。本綱の紅藻は全て温泉藻である。紅藻の中で初期に分岐したと考えられることから、このグループを原始紅藻と呼ぶ場合もある。イデユコゴメ綱の紅藻は赤色の色素であるフィコエリスリンを欠くため、紅藻ではあるが藍藻と同じフィコシアニンの青緑色を呈する。そのため、肉眼による藍藻との判別は困難である。いずれも硫酸酸性の低 pH の温泉を好み、世界各地に生息する。イデユコゴメ綱イデユコゴメ目イデユコゴメ科の3属が含まれる。温泉に棲む珪藻のうち、同定が進んでいるものは多くない。しかし日本の温泉には多くの固有種が生息していると考えられている。温泉藻の主なものはハネケイソウやイチモンジケイソウの仲間である。
江戸時代に入ると、大都市で銭湯が大衆化した。銭湯に垢すりや髪すきのサービスを湯女にやらせる湯女風呂などが増加した。松平定信が、1791年、江戸の銭湯での男女混浴を禁止する男女混浴禁止令を出すなど、風紀の取り締まりの対象にもなった。これは混浴そのものよりも、湯屋における売買春などを取り締まるものであったと言われる。当時の湯屋は二階に待合所のような場所があって将棋盤などが置いてあり社交場となっていただけでなく、湯女などによる売春や賭博などの格好の場となっていたためである。しかし依然として混浴が主流であった。1853年、混浴銭湯に冷や水を浴びせる出来事が起こる。幕末の黒船に乗ったぺリーの上陸である。さまざまな日本文化はペリーを驚かせた。裸でぶつかり合う相撲などもそうだが、特にペリーを驚かせたのは混浴銭湯であった。「日本遠征記」には挿絵付でこう記されている。「男も女も赤裸々な裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴しているのを見ると、この町の住民の道徳心に疑いを挟まざるを得ない。他の東洋国民に比し、道徳心がはるかに優れているにもかかわらず、確かに淫蕩な人民である」。明治新政府は、欧米への体裁を気にし、混浴禁止令を出す。都市部では取締りが強化される。しかし、なかなか改まらないため、混浴禁止令はたびたび出されたが、完全になくなったのは明治末期になってからであった。それでもなお、地方の温泉地などの多くでは混浴が当たり前という時代が昭和30年代まで続く。高度成長期以後、都市部の住民が地方の温泉地を訪れる機会が増え、混浴という風習を知らない観光客が増加したため、多くの旅館やホテルがそのニーズに応えるべく、浴場の増改築など施設の近代化・巨大化に取り組んだ。 その結果として昭和40年代以降、混浴は減少の一途をたどることとなった。 浴場や入浴施設の許認可権限をもつ保健所が、新規の混浴施設建設に対して頑なな対応をとり続けることも、減少に拍車をかける一因となっている。なお、九州地区では未だに混浴設定が残っている温泉も多く、現時点では条例による規則を設定していない。
打たせ湯を名物としている温泉地も存在し、その代表例は筋湯温泉である。主にNacl、すなわち食塩の形で温泉水中に存在することがおおい。食塩系の塩化物泉は体が温まりやすく湯冷めしにくいという特徴を持つ。旧泉質名では食塩泉と呼ばれ、新泉質名ではナトリウム-塩化物泉と呼ばれる。また他の溶存物質の種類により、様々な派生の形が存在する。温泉水1kg中の溶存成分が1、000mgを超え、そのうち陰イオンの主成分が塩化物イオンのもの。