入門者は、風呂設備のみにとらわれる事無く、 湯そのものの質を味覚触覚嗅覚視覚を総動員して見極め、 それぞれの湯の個性を楽しむ事。 また、その楽しさをうるさがられるほど語る事。 温泉道表泉家参加施設の湯は世界中の湯の質十一種の内、 十種類を網羅しているし、八十八湯は異なる個性を持つ。 このような湯の理想郷は世界広しと言えども別府八湯唯一のものである。6.体調管理に留意する事 入門者は、自身の体調管理には十分に留意し、湯当たりの無い様にする事。 特に一部施設は高温で知られるので、 掛け湯等を充分に行い、しかるのち入浴する事。
八幡間歇地獄は、八幡地獄の裏にあった間歇泉である。観光化された当初は間歇地獄と呼ばれていたが、程なく朝日間歇地獄と区別するため八幡間歇地獄と呼ばれるようになった。昭和初期に八幡地獄に含まれるようになり、戦後は八幡地獄と同様閉鎖。朝日間歇は、八幡間歇地獄と同様の間歇泉であり、区別のために旧村名の朝日を被せたものである。こちらの方が規模は大きかったが、引き湯のために付近の泉源を整備した際に間歇泉の勢いが減少、八幡間歇地獄よりも先に閉鎖された。無間地獄は、八幡地獄のすぐ側にあった地獄である。1937年にはまだ存在したことが確認されているが、比較的早い時期に閉鎖されたと思われる。鶴見地獄や八幡地獄に比べると知名度は著しく低い。現在は八幡地獄の跡地と一緒に「八幡公園」になっている。
床に敷き詰めた天然石を、温水もしくは電熱により加熱し、発生する遠赤外線を利用した温熱施設である。公衆浴場法では、「その他の公衆浴場」に分類される。利用者は、作務衣等の浴衣を身につけ、バスタオル等を床に敷いて、その上に横たわる。床面からの輻射熱と、浴室を満たす水蒸気中の遠赤外線熱エネルギーによって全身くまなく温め、おびただしい発汗をもたらす。浴室の温度が40℃前後と低温で過ごし易く、女性や高齢者が無理なく利用できることから、支持者を増やしていった。2001年6月、宮城県気仙沼市に登場して以降、岩手県、北海道、そして、当初使用した石が宮崎県高千穂産であったことから、九州各地へと広がりをみせた。その後、地方で発生したブームが大都市へと波及する特異なかたちで、東京、大阪、名古屋などで大小入り乱れて、岩盤浴専門店が乱立するようになった。公衆浴場の経営が未経験の業者がほとんどで、中には保健所の許可を取得せぬまま開業している店舗も見うけられた。ブームがピークに達した2006年9月、小学館発行の週刊誌「週刊ポスト」が、岩盤浴室の衛生問題を告発する記事を3週連続で掲載し、岩盤浴事業者に深刻な打撃を与えた。その後、記事の影響と、岩盤浴専門という単一性が利用者のニーズを満たさなくなるなど、小規模の岩盤浴専門店の魅力は急速に失われていき、多くの店舗が撤退や閉店を余儀なくされた。2010年1月現在、東京都内では大手企業が運営する岩盤浴店はだいぶ数を減らしている。
古くは湯治を行っていたのは権力者など一部の人に限られていた。鎌倉中期の別府温泉には大友頼康によって温泉奉行が置かれ、元寇の役の戦傷者が保養に来た記録が残っている。一般の人の間でも湯治が盛んに行われるようになったのは、江戸時代以降である。これは、街道が整備されたことにより遠方との往来が容易になったためである。草津温泉などは、梅毒に苦しんでいた江戸の町人が多く湯治に訪れたという。合戦が行われなくなったことにより、農閑期に時間が発生した農民が、蓄積した疲労を癒す目的で湯治を行うようにもなった。また、江戸時代に東海道を旅する際に、宿場に指定されていた小田原宿ではなく、箱根温泉に宿泊を希望するものが多かった。だが、当時は長期滞在を前提とした湯治客のみが箱根温泉に宿泊できたため、一泊のみの旅行者は泊まることができなかった。その抜け道として、一日だけ湯治を行うとする一泊湯治などと称して箱根温泉に宿泊したという。明治時代以降、医学の近代化が図られた際に、湯治の近代化として滞在型温泉療養施設の建設がドイツのエルヴィン・フォン・ベルツ博士から提案されたが、建設には至らなかった。一方、量、種類ともに豊かな温泉資源に恵まれた別府温泉では、1912年に陸軍病院、1925年に海軍病院が開設され、温泉療法が実践されていた。1931年には、日本の大学で初めての温泉療法の研究施設として、九州大学温泉治療学研究所が開設された。